文化財のご案内

中津川市指定天然記念物 井出之小路の木曽大ヒノキの標本

この標本となった大ヒノキは、かつて「出の小路(いでのこうじ)の大檜」と呼ばれ、一の枝は東向きに長さ5.5メートル、直径0.6メートルもあり、東鴨枝の神木と称されていた。
しかし、昭和9年9月の室戸台風により地上12メートルの高さで折損し、昭和29年に学術参考用として伐採された。
2枚の標本を作製・保存する事となり、山神を祀る当社と山林を管理する付知営林署[現在の東濃森林管理署]がそれぞれ所蔵する。
樹齢950年という巨大檜の標本は昭和51年1月20日に付知町天然記念物に指定され、平成17年の市町村合併により中津川市天然記念物となる。昭和56年、付知営林署は出の小路の新たなシンボルとして樹齢1000年の巨大檜を「2代目大ヒノキ」に襲名披露した。その後、この標本となった檜は「初代大ヒノキ」の愛称で親しまれる。

【鴨枝(かもえだ)…樹木の一ヵ所から多くの小枝の生じたもの。神の休み場であるとして伐る事を忌む。天狗の休み場。天狗の巣。神の腰掛け木。】

絵馬額「櫻木鞍置馬之圖」

天保15年[弘化元年・1844]2月、江戸幕府第12代将軍・徳川家慶公より奉納された一面の絵馬額。押絵は御台所[正室]の御自作とされる。
家慶公の正室は天保11年[1840]に病没された浄観院こと楽宮喬子女王。人里から隔離された深山にある奥社[山宮]では絵馬額の管理が不充分であった為、 御台所の没後、護山神社・本社[里宮]の創建を機に奉納されたものと考えられる。
幕府と当社の関係を裏付ける貴重な資料である。

【浄観院(じょうかんいん)[楽宮喬子(さざのみやたかこ)女王]…寛政7年[1795]〜天保11年[1840]。
有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の第6女で、生母は側室・常磐木(ときわぎ)[尾崎積典の娘]。名は喬子、幼名は楽宮。
吉子(よしこ)女王[徳川斉昭の正室]の姉で、第15代将軍・徳川慶喜公の伯母にあたる。】

三ツ尾伐り(みつおぎり)の切株

木曾地方で古くから貴重な材木の伐り倒しに用いられてきた伐採法。別名、三ツ緒伐り・三弦伐り(みつるぎり)・三ツ伐り・台伐り・三ツ紐伐り(みつひもきり)・三ツ目伐り・三ツ口伐り。
熟練の技術と周到な準備が必要となるが、伐倒方向が正確で、心抜け(しんぬけ)や運搬中の突き割れの心配が無い。木曾谷[長野県]・裏木曾[岐阜県]国有林での御樋代木(みひしろぎ)・御船代木(みふなしろぎ)の伐採にも三ツ尾伐りが用いられ、当社の所蔵する切株も同じ方法で伐採されたもの。

無形文化財 太々神楽(熱田神楽)

名古屋市史編集委員会「新修名古屋市史第9巻 民俗編」からの引用
『天保9年3月の江戸城西の丸炎上による造営のため、
木を伐採しようと裏木曽へ入ると、種々の異変が続いたので、幕府が尾張藩に命じ山の神を祀らせた。
しかし、場所があまりにも奥だったので、天保14年、現在地に社殿を造営した社が護山神社である。
拝殿は本殿の御垣から少し離れて切妻を正面に向けて建っており、これは尾張地方の社殿配置の影響を受けたものである。また、祭礼の楽人は熱田宮から来ていたという。
その関係が今でも続いており、尾張色の濃い社となっている。
例大祭は4月25日であったが、平成8年から4月第4日曜日に変更された。
拝殿では2人の神子による太々神楽を終日行っている。願主が祈祷のため、拝殿に座すと神楽が始まり、式正・榊の舞・式正の順で舞い、終わると神子の一人が願主の頭上で鈴を振る。その神子は地元の子供が勤めている』
当社は創建以来、毎年の例祭には熱田神宮から御神楽方が派遣されていた。
現在もその伝統を引き継ぐ笠寺保存会[名古屋市南区]による奉奏(写真)が続いている。
お囃子は笛1名、太鼓・締太鼓1名の計2名。舞う巫女は2名、昭和30年頃までは熱田神宮の巫子が奉仕していた。

神薗舞(かみそののまい)

当社独自の乙女舞で、昭和22年に熱田神宮桐竹会楽長・東大路保義氏より奉納された。
地元の雅楽会が奉奏する歌と楽に合わせ、大榊を手にした4名の巫女が軽やかに舞う。
本社例祭[春季例大祭](写真)
、五社巡祭[秋季例大祭]で神前にて奉納される。

岐阜県指定無形民俗文化財 木遣音頭(きやりおんど)

木遣音頭(写真)は慶長年間、名古屋城築城の石揚げ工事において功労のあった付知村民へ、その指揮を執った加藤清正公が、石曳で用いた音頭を贈ったものだと伝えられている。
以来、神宮[伊勢神宮]式年遷宮で伐採された御神木[御樋代木]を山から曳き出す作業の音頭に用いられ、地元の民謡として付知町の杣人(そまびと)[きこり]の間で伝えられていたものが県の無形民俗文化財に指定された。
現在「木曵保存会」が継承している。
地域を代表する郷土芸能の一つ。

おんぽい節

神宮[伊勢神宮]式年遷宮御用材や幕府御用材等の搬出地であった当地では、伐り出してきた木材を、男衆が鳶口(とびぐち)一丁で体を張って「おんぽい、おんぽいなー」の掛け声で川へ流していた。
その作業風景は「おんぽい節」(写真)として謡い踊り継がれ、現在「付知町おんぽい節保存会」が継承している。地域を代表する郷土芸能の一つ。